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大東・三好長慶会主催「三好実休 久米田の戦い!の跡を辿る旅」 前編

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 昨年末の2019年12月15日(土)に行われた、大東・三好長慶会主催の「三好実休 久米田の戦い!の跡を辿る旅」に参加させてもらいました。

  戦国時代中期から後期にかけての時期に畿内の覇者となった三好長慶、その弟三好実休畠山高政の軍勢と戦って討死した、永禄5(1562)年の久米田の戦い。大きな戦いでも千人単位の人数だった時代に万を超える人数で行われた、当時としては珍く大きな規模の合戦であり、その後の三好政権に影響を与えたと言われる合戦です。

 永禄4年に三好長慶の弟で「鬼十河」と呼ばれた猛将十河一存が死去した後に、長年敵対関係にあった三好長慶細川晴元との和睦が成立し、晴元とその嫡男が普門寺に入って三好の管理下に置かれたところで騒ぎが発生します。室町幕府将軍足利義輝の画策ではないかとかなんとかいう話もあるようですが、手元に晴元の次男を預かっていた近江の六角義賢が、十河一存がいなくなったことを好機と見たのか、長慶によって紀伊国に追い払われていた畠山高政と手を結び、晴元の次男を細川家当主とすべく7月に挙兵。六角軍が京都北白川方面の勝軍地蔵山城に進出、畠山軍は根来衆と手を組んで、長慶の弟安宅冬康が守る岸和田城を包囲します。三好方は南北から挟撃されることになり対応に追われますが、南では長慶の弟実休が岸和田城の救援に向かい、久米田寺の隣にある貝吹山古墳に本陣を置きます。戦線は膠着状態になりましたが、翌年の永禄5年3月5日、畠山軍が動き出し、久米田の戦いが始まりました。

 久米田の戦いの詳細については、当時の記録や軍記の内容が様々なので、諸説入り乱れる様相になっていますが、とりあえず主な文献として、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧可能なものを挙げてみますと、次のようなものがあります。

 

細川両家記 (群書類従第拾參輯 合戦部 巻第三百八十)

下のバナーを押すと該当箇所のページを閲覧出来ます。 p630

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長享年後畿内兵乱記 (改定史籍集覧第十三冊 別記類第二 第百十二)

↓該当箇所 p98

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足利季世記 巻六 号久米田合戦記 久米田合戦之事 (改定史籍集覧第十三冊 別記類第二 第百十六)

↓該当箇所 p225

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続応仁後記 巻七 泉州久米田合戦三好実休討死事 (改訂史籍集覧第三冊 通記第二十)

 ↓該当箇所 p140

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厳助往年記 (改定史籍集覧第二十五冊 新加書第八冊 新加別記類第二 第五十五)

↓永禄5年3月の項、該当箇所は次のページ(p404)

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その他の文献について、吉川弘文館人物叢書三好長慶」(長江正一著)p206に、「右の「大事の疵」について、鉄炮(『長享年後畿内兵乱記』)、「根来往来(ゆきき)右京首執之」(『蜷川家記』による。『足利季世記』『続応仁後記』は、往来左京が鑓で突き落して首をとったと記す)と記されている。これを、後に成立した諸書は、「流矢」あるいは「自殺」と記した。」という記述があり、「蜷川家記」については手元で原文を確認出来ないのでこの部分を写しておきます。

 文献によって話がばらばらな久米田の合戦。大雑把に話をまとめてみますと、畠山勢が動き出すのを三好勢が察知し、畿内の軍勢を中心とした部隊と四国の軍勢を中心とした部隊が、三好実休隊と篠原長房隊に分かれて攻撃を開始。三好勢が畠山勢を圧倒し、全部隊が出撃して実休の本陣周りが手薄な状態になっていた、その時。

実休もわずかな馬廻りの兵と共に打って出た / 畠山勢が実休の本陣を攻撃した

乱戦の中で実休が討ち取られた / 根来衆の往来左京が実休を討ち取った / 根来衆の往来右京が実休を討ち取った / 実休に銃弾が命中した / 実休に流れ矢が刺さった / 進退窮まった実休が自害した

三好勢は総崩れになったが、追撃を免れた / 三好勢は総崩れになり、追撃されて大損害を被った

詳細はともかく、三好実休が討死してしまって三好勢が敗北し、記録によって内容が違ってしまう程、現場が大混乱になったことは確かなようです。

  久米田の合戦で敗れたことにより、安宅冬康も岸和田城からの撤退に追い込まれます。三好実休を失った上に南方の戦線が崩壊状態になった三好家は、北部の戦線では将軍足利義輝石清水八幡宮に動座させ京都から撤退、南部の戦線では畠山勢が三好長慶の本拠である飯盛城を攻撃する勢いを見せ、長慶は飯盛城で籠城せざるを得ない状況になります。

 しかし三好家は、松永久秀がサポートする態勢で嫡男義興を総大将にして軍勢を立て直し、2か月後の5月19日に実休の弔い合戦となった教興寺の戦いで畠山勢に大勝します。掃討作戦が行われた結果、三好家が河内国から畠山の勢力を駆逐し、河内全体が三好家の勢力下に入ることになりました。

 三好家が版図を広げた教興寺の戦いに先立つ久米田の戦い、簡単に述べると以上のようになりますが、この合戦の評価としては、当時としては珍しい大規模な合戦、大名クラスの武将が鉄砲によって討死した最初の合戦、長慶の弟実休の死によって三好家のその後に大きな影響を及ぼした合戦、といったものが挙げられます。戦国時代に畿内で起きた、この重要な合戦の現地を歩いてみようと企画されたのが、今回のツアーです。

 最初の目的地は岸和田城ですが、江戸時代の岸和田藩の城跡である、現在の岸和田城になります。三好政権の頃に使われていたとされる城は岸和田古城と呼ばれて、遺構があるのは少し離れた場所だそうです。  

  南海本線の急行と各駅停車を乗り継ぎ、最寄り駅である蛸地蔵駅へ。大正時代の駅舎で、天井にステンドグラスがあります。小牧・長久手の戦いの時、秀吉配下の中村一氏が守る岸和田城に攻めてきた紀州の根来・雑賀の大軍を、蛸と共に現れた法師が追い払い、後で地蔵菩薩の化身だったことが判ったので、発見されたお地蔵様を近くの天性寺にお祀りし、蛸地蔵と呼ばれるようになった、という伝説が描かれています。

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 駅から少し歩くと岸和田城が見えてきます。跡地の一部は和食のレストランになっていましたが、今「がんこ」のサイトをチェックしたところ、「指定管理者の期間満了により、 平成31年1月20日(日)をもって閉店いたすこととなりました。」と書かれています。後はどうなるんでしょう。

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  岸和田城に入り、本丸の出入口にある虎口の門を抜けた所で、大木が倒れていました。平成30年9月の台風21号で倒れたようです。あれは怖くなる程強烈でした。

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  本丸にある、作庭家重森三玲設計の枯山水庭園「八陣の庭」は、国の名勝に指定されているそうです。入場料300円を払って天守閣へ。上の階からは、遠くまで良く見えます。庭園は、天守閣の上から見ることを想定して造られているそうです。中は博物館になっており、主に江戸時代の岸和田藩主岡部氏の遺品その他が展示されています。

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  天守閣の見学を終え、二の丸公園にある休憩所へ。我々は昼食持参でしたが、レストランもあります。この日はものすごく寒かったので、建物の中に入れたのは有難かったですね。昼食を終え、昔の城下町だった区域を通って南海本線岸和田駅へ。

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  南海本線岸和田駅からバスに乗り、内陸側を走るJR阪和線下松駅へ移動し、そこから歩いて久米田の戦いの戦跡を目指します。 以下、後編に続きます。

 

 戦国時代全体の歴史と三好氏の興亡について書いた自著の紹介。久米田の戦いも出てきます。

河内国飯盛古城追想記: 電子書籍版

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