10月24日に発売となる拙著「河内の国飯盛山追想記」(アメージング出版刊)の主人公三好為三は、真田十勇士の三好清海・伊三入道兄弟のモデルになったとされる人物である。従来、実在の人物である本人の名は法名の為三で呼ばれてきた。諱については、政勝であろうとされてきた名は実兄である宗渭の諱である、とするのが最近の研究ではほぼ異論の無いところかと思われる。為三の名前については、法名が為三、号が一任斎、諱は不明とするのが一般的だったと思われる。織田信長、足利義昭、千利休などの書状に宛名を一任斎としたものがあるが、織田信長がその後発給した文書では為三の表記となり、関ヶ原の戦いの頃に徳川家から出された文書でも為三とされている。
三好為三は江戸幕府の旗本となり、家名が存続したため、寛永諸家系図伝、寛政重修諸家譜に三好家の記載がある。三好為三については、従五位下因幡守、諱が一任(まさとう)、法名が為三、通称の記載なし、となっている。しかし、これらの記述は江戸時代に編纂されたものであるため、一次資料ではないこと等が理由となり、学術研究者には重視されてこなかった。三好為三についての考察がある学術論文は幾つかあるものの、ほぼ根拠となる史料が示されることもなく推測を述べることに終始しているのが現状と言ってよい。
しかしながら三好為三は、徳川三代将軍家光の時代である寛永年間まで現役の旗本であり、従五位下因幡守に任ぜられたのは江戸幕府成立後であるため、ある程度詳しい記録が残っている。日本史を研究する際の基本史料集である大日本史料にも、史料が記載されている。
大日本史料12編2冊320頁慶長9年6月22日2条
堀尾可晴ヲ従四位下ニ叙シ、遠藤慶隆、分部光信、松平忠利等十数人ヲ従五位下ニ叙ス
この項目に挙げられる「十数人」分の史料の中に、三好為三と三好房一の叙任記録が記述されている。
〔續武家補任〕十二 西尾源教次 慶長九年六月二十二日、信濃守従五位下〇寛政重修諸家譜、略譜等ニハ、本條ノ事見エズ、
〔寛政重修諸家譜〕百九十九 三好一任(まさたふ) 慶長九年、従五位下因幡守に叙任し、〇下略
〔續武家補任〕十二 三好源房一、新右衛門、慶長九年六月二十二日、丹後守従五位下、〇寛政重修諸家譜、略譜等ニハ、本條ノ事見エズ、
東京大学史料編纂所大日本史料総合データベースの該当ページ(p323)
刊行済みの大日本史料に記載されている史料がある以上、それについて言及も検討もなされていない従来の文献は、参考にすることが出来ない。
続武家補任については、国立公文書館が所蔵している内閣文庫の中に昌平坂学問所旧蔵の続撰武家補任がある。
国立公文書館デジタルアーカイブの続撰武家補任12の先頭。該当箇所は91/104の部分。
江戸幕府による大名旗本の補任に際しては本人確認がなされるため、本人以外の事についての追記部分はともかく、本人の事項に関する限り、従来論文等で述べられてきた史料的裏付けが乏しい推測よりは、ひとまず補任の古記録にある記述を信ずる方が妥当な選択かと思われる。
ちなみに、三好為三の領地については、孫の勝任(後に長富)の跡目相続となっているので、為三は最期の時まで現役の旗本であった。ご隠居さんのような「一任斎」を名乗る理由は無い。三好為三入道の名前は、三好一任、従五位下因幡守、法名為三、とするのが妥当であろう。
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