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大東・三好長慶会主催「三好実休 久米田の戦い!の跡を辿る旅」 後編

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  前回の見学範囲は南海本線沿線でしたが、今回はJR阪和線沿線へ移動します。南海本線岸和田駅からバスに乗り、JR阪和線下松駅で下車、そこから春木川沿いの道を上流に向かって歩きます。高い建物等で見通しが良くないのか、それとも遠いからなのか、振り返って岸和田城方面を見てみましたが、岸和田城はもう見えませんでした。

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 川沿いの道から外れて住宅地の中を抜け、三好実休戦没碑を見てから、実休の本陣があった貝吹山古墳とその隣の久米田寺を目指します。  

 

  久米田の合戦があった当時は合戦が出来る程に広い野原だったのかもしれませんが、今ではすっかり住宅地になっています。 

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 住宅地の中にある満願寺というお寺を正面に見て細い道路を挟んだ右側に、三好実休戦没碑があります。裏に回ってみると古い石碑が幾つかありましたので、何度か新しいものに建て直されてきたのかもしれません。ここが、三好実休が戦死した場所とのことです。

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  三好実休戦没碑の道を挟んだ向かい側に、往来右京の首塚と呼ばれる小さな石碑があります。

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  往来右京なのか往来左京なのか、実休を討取った後その場で討取られたのか、別の合戦で討取られて首を供えられたのか。討取った者の名が実は不明だという可能性もある。実休は自害したのでそもそも討取られてはいないのか。記録、伝承が様々で、一体何が起きたのか、はっきりしたことは今も分かっていませんが、討たれた者と討った者の石碑が向かい合い、三好実休が戦死した時の様子を石碑で表したかのような配置になっています。

 起きた出来事の順番は逆になりますが、実休が本陣を構えた貝吹山古墳を目指して移動します。途中で通りかかった小学校の体育館でしょうか、屋根が吹き飛ばされたままになっていて、改めて台風21号による被害の大きさを感じました。住宅地の中を、どこを歩いているのか分からないまま、皆さんの後についてしばらく歩いているうちに見えてきた森のようなものが、貝吹山古墳(かいぶきやまこふん)。久米田古墳群のうちの1つで、周辺は他の古墳と共に久米田公園として整備されています。全長130m、後円部径75mの、諸兄塚(もろえづか)とも呼ばれる前方後円墳で、三好実休軍が陣貝をここで吹いたことから貝吹山と呼ばれるようになったとのこと。

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  墳丘に上ることが出来るとのことで、ちょっとした山登りをして後円部の頂上へ。けっこうな高さがあり、測量の三角点になっているそうです。

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 今では木が生い茂っていて、木々の間からの眺めになりますが、それでもかなり遠くまで見通せます。おそらく六甲山あたりだろうと思われますが、大阪湾の向こう側まで見えています。高い建物がほとんど無かった時代には、大阪平野全体が見渡せたのではないかという程の眺め。久米田の合戦の時、三好実休が本陣を置くのには良い場所だったであろうと思われます。 

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 実休が久米田に陣を布いた時、貝吹山に城を築いた、という話もあるので、貝吹山古墳の後円部から前方部を見てみましたが、古墳というのはほとんどが斜面で平面が少ないな、という印象です。城を築くことが出来る広さは無いのではないかという気がします、ただ、戦闘になった時の戦闘指揮所とか、索敵のための見張所などを作れそうな感じはあります。すぐ横に久米田寺が見えているので、軍勢はそこを宿所にして、敵の動きに応じて必要な時に本陣周りのメンバーが貝吹山に登ったのではないか、という気がしました。久米田の合戦で三好実休が貝吹山に陣取ったというのは、そんな感じではなかったかというのが個人的な感想です。 

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  古墳と城という組み合わせについてもう少し考えてみると、三好家が畠山家を追い出した後に三好実休が預かり、久米田への出撃地となった河内の高屋城も、古墳が本丸になっていたそうですが、普段から古墳に住んでいるとかいうのではなく、戦時に臨時の場所として使われたのではないかと思います。大坂冬の陣徳川家康が、夏の陣で真田幸村(信繁)が天王寺茶臼山古墳を本陣にしたのと同じ方法ではないかと思います。

 一通り眺めたところで古墳から下り、隣の久米田寺へ向かいます。道順としては、裏から入ることになります。

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 大阪府岸和田市池尻町にある龍臥山久米田寺。久米田池を開削した天平時代の僧、行基さんによって、久米田池の維持管理をするため創建され、本尊は釈迦如来だそうです。お堂がたくさんある大寺院です。

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  久米田寺の前には、面積が大阪府内最大のため池である、久米田池が広がっています。詳しくは、大阪府のウェブサイトに紹介ページがあります。池の縁まで行けば広さがよく分かるだろうと思われますが、時間が無いとのことで久米田寺の山門前から、次の目的地へ向かいます。

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 予定では、和泉市和気町の妙泉寺にある三好実休供養塔へ、JR久米田駅から最寄り駅まで電車で移動してから向かうことになっていました。しかし、ガイドさんによると、歩いて3、4キロの道のりなので、乗り継ぎの時間を考えるとショートカットして歩いて行った方が早いとのことで、皆さん歩き出します。平均年齢がかなり高い団体ですが、全く平気で進んでいきます。 

  岸和田といえば「岸和田のだんじり」ですが、道の途中の町内にはだんじりの倉庫がありました。途中で休憩をした時、どこかで落とし物をしたことに気付き、皆さんには先に行ってもらって、道を戻って落とし物を拾って追いかけましたが、皆さん健脚でとうとう追い付けませんでした。連絡をしたところ、皆さん既に妙泉寺に到着。途中に古い道しるべがあるのですぐに分かると教えてもらって歩いていると、それらしきものを見付けました。よほど古いものなのか、一部は土の中に埋まっています。道しるべに従って角を曲がり、しばらくまっすぐ歩いているうちに妙泉寺に着きました。

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 妙泉寺は日蓮宗のお寺で、日蓮宗の僧日珖が書いた文字を刻んだとされる、三好実休の供養塔である大きな五輪塔があります。三好実休は、日珖に帰依して堺にある土地を寄進し、そこに今では蘇鉄で有名な妙国寺(妙國寺)が創建されました。討死した三好実休は妙泉寺に葬られた後、妙国寺に改葬されたようです(長江正一「三好長慶吉川弘文館人物叢書新装版 p208、p251)。供養塔脇の塔婆立てに新しいお塔婆があったので、ここ妙泉寺でも定期的に供養が行われているようです。

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  最終目的地の見学が終わり、帰りの電車に乗るためJR和泉府中駅に向かいます。皆さん疲れも見せずどんどん歩いて行きます。徳島県人会の三好氏関連行事でよくお会いする県人会のSさんと、大東の三好長慶会の皆さん元気だなあ、地元の飯盛城で登山して鍛えてるからかも、などと話しているうちに、駅に着きました。それほど遅い時間ではありませんが、冬の夕方なので、もう暗くなってきていました。

 今後の予定として、久米田の戦いに続く教興寺の戦いの戦跡を見学するイベントもやりたいとのことでした。

 大東・三好長慶会の皆さん、どうもお世話になりました、ありがとうございました。

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 戦国時代全体の歴史と三好氏の興亡について書いた自著の紹介。久米田の戦いも出てきます。

河内国飯盛古城追想記: 電子書籍版

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