旧河内国野崎の周辺を舞台とした自著『河内の国飯盛山追想記』は、野崎観音として現在も親しまれている慈眼寺を、主人公の三好為三が訪れる設定になっています。もう一年半も前の事になってしまいますが、慈眼寺に『河内の国飯盛山追想記』を献本してきました。
大阪府大東市野崎にある曹洞宗のお寺である福聚山慈眼寺は、河内飯盛山の山裾に奈良時代の僧行基により開山。戦国時代に飯盛山にあった飯盛城で三好長慶が没した後、三好三人衆と松永久秀の対立による兵火で消失。江戸時代初期に青巖和尚によって再建が始められ、毎年5月1日~8日の法要は野崎参りとして江戸時代から現在までずっと賑わっています。近松門左衛門の『女殺油地獄』、お染久松で有名な『新版歌祭文』といった人形浄瑠璃・歌舞伎の舞台となり、さらにそれが戦前の歌謡曲、東海林太郎の『野崎小唄』で歌われたりしている有名なお寺です。詳しい話については、慈眼寺のホームページに出ています。
https://www.nozakikannon.or.jp/
慈眼寺で撮った写真はブログ掲載OKと御住職がおっしゃっておられたので、写真付でレポートしてみたいと思います。
5月初旬は野崎参りの期間でお忙しいので、事前に連絡を入れて五月の中旬に行ってきました。最寄り駅はJR学研都市線野崎駅。駅は最近改装されたらしく新しい駅舎になっていて、以前取材に来た時とは少し感じが違っていました。

駅前の橋を渡ると野崎参道商店街の入り口があります。広い道の両側にお店が並んでいて、飯盛山まで見通すことが出来ます。歩道が広くて歩きやすいですが、けっこう車が通りますので道を渡る時は注意が必要です。飯盛山を目指して東の方向へ進んでいくことになります。

野崎参道商店街を抜けると旧国道170号線に出ます。けっこう細い道で歩道のない場所があったりして、地元の人のように慣れた人でないと歩きにくいかも。野崎観音へは、信号を渡ってそのまま細い道へ入って直進です。

細い道を抜けると東高野街道に出ます。作品の中で三好為三の一行が通った道です。路面に赤みを帯びた色が付いていますので、分かりやすくなっています。昔は野原や田園風景といった感じだったのでしょうが、現在は住宅地の中の細い道になっています。街道の名がついていても昔の道は現在と比べると細い道が多く、案内板が無いと見過ごしてしまいそうな感じです。ここまで東向きに進んできましたので、向かって左右の方向が南北になります。直進すると野崎観音の西門に着きますが、まずは正面の山門を目指し、ここで右へ曲がって南方向へ進み、為三の一行と同じ道を歩いてみます。

先程の交差点のすぐ近くに東高野街道を示す表示があります。普通の道路なので車が通りますので注意が必要です。戦国時代は東に飯盛山、西に深野池という巨大な湖が見えていたかと思われますが、江戸時代の干拓事業で新田開発が行われて深野池がなくなり、風景がかなり変わったと思われます。現在は広範囲で住宅地になっていますので、時代とともに景色が歴史的に大きく変わっていった場所と言えるでしょう。

東高野街道を南へ進んでしばらく歩くと、左方向に正面口への道があるので左折します。江戸時代はもう少し南の方に船着き場があり、大坂の町から船で到着した野崎参りの人々が向かい側の方角から北向きに歩いてきて、この辺りで東へ向かったものと思われます。ここまで来ると、かなり山が近くなってきています。

上り坂を歩いていくと、野崎観音の正面に出ます。この日は暑かったのですが、意外に大回りになり、約束の時間に遅れそうになって急いでここまで来たので、なんだか少し疲れました。そこへ、最後に急な階段が待ち構えています。

急な階段を上りきった所に山門があります。ストーリーの中に三好為三が案内の青年久右衛門に足元に気を付けるようにと言う場面がありますが、戦国の兵火で焼け落ち荒れ果てたお寺の再建が始まったばかりの頃なので今のように整備されていなかっただろうなと思い、書き入れてみたシーンです。階段が無いと上るのが大変だろうと思われる場所です。

山門まで上ると、本堂への正面階段が見えてきます。トンネルのような山門をくぐって、野崎観音慈眼寺の内側に入ります。

広場の向こうに、本堂を中心に色々な建物が建っているのが見渡せます。五月の晴天に木々の緑がよく映えて非常に綺麗だったのが印象的でしたが、大阪府による「大阪みどりの百選」に「野崎観音の緑 大東市」が選定されていることを後で知りました。山門前の階段の下まで来た時、すでに周辺の緑が綺麗だったのを覚えています。

本堂前の階段を上がり、息切れしながら振り返って山門を見たところ。山門の横に休憩所が設けられているのは、普段お参りに来る人にとって便利かと思われますが、休んでいる時間はありません。早く御住職に挨拶しに行かなければ。

社務所で用件を伝えると御住職が出てこられ、無事に本をお渡しすることが出来ました。御住職が本堂の御本尊へお供えしてくれて、自分も焼香させて頂きました。

写真はご自由にと言って頂いたので撮らせてもらいましたが、後で確認したら一番大事な写真がまさかのピンボケ。スマホ撮りが上手くないのでもっと練習しなければと反省。ともかく本は予定通り献本することが出来ました。

献本を済ませた後、その辺りを散策してから帰ることにました。慈眼寺の境内にある名所として、婦人の病に効くと伝えられる江口の君堂、お染久松の塚といわれる供養塔などがあります。実際のお染、久松の墓は別々の場所にあるそうなので、ここにあるのは供養塔ということになります。

本堂と向かって左側にある三十三所観音堂との間に小道があり、野崎城址、飯盛山への道へと続いています。以前も登りましたが今回も野崎城址に寄って帰ることにします。

小道に入ると鐘楼があり、その先に野崎城址への道、飯盛山への登山口があります。

野崎城址への道の入り口に、飯盛城址が史跡に指定されたことを記念したのぼりが立っていました。飯盛城址までは距離があって行くのが大変なので、今回は飯盛城址までは行かずに野崎城址だけにしておきます。

けっこう急な山道で、階段が整備されていますが町中の階段とは違って山歩きの人向けで、今回履いてきた街歩き用の靴では歩きにくく、前回はスニーカーで足をくじきそうになりました。

途中に見晴らしのいい場所が何か所もあり、展望スペースになっています。

休憩所も何か所か設けられています。

野崎城址まで行く途中で一番見晴らしがよいと思われる場所は、展望休憩所と名がついています。

展望休憩所から見た大阪市内方面。ビルが立ち並んでいるのが見えますが、御堂筋の辺りでしょうか。ここからもう少し登ると野崎城址です。

野崎城の本丸跡まで上ると、野崎城址の碑と説明板があります。今回は野崎城址の碑の写真を撮るためにここまでやって来ました。というのも、前回来た時に取った写真を帰ってチェックしてみたら指が写り込んでいたので撮り直したいと思っていたから。あの時からスマホ撮りをけっこう練習したと思うのですが、本堂で撮った写真がピンボケになっていた通り、まだまだ修行が足りないようです。石碑については、今回きちんと撮れたようです。

散歩に来ていた近所の方に、本丸跡から万博記念公園方面を見ると空気の澄んでいる時には観覧車や太陽の塔が見える、などの情報を教えてもらったりしてしばらく景色を楽しんだ後、山を下りました。

慈眼寺の本堂裏まで戻ってきました。上から見ると、かなり急な坂になっていることがよく分かります。ここは既に飯盛山の一部なので、改めてここが山だということを思い出します。入り口付近でこれぐらい急ですから、さらに奥へ行くことになる飯盛城址はどんな感じなのでしょうか。ハイキングコースが整備されているそうですが、ある程度の装備は用意して行ったほうがいいかもしれません。

慈眼寺の広場まで戻って予定終了です。駅に近い西門から帰ることにします。

西門からの風景も良い眺めになっています。

西門を出て慈眼寺を後にしました。野崎駅からまっすぐ来た場合は、ここから入ることになります。

西門に続く階段も急なので、あまり楽な道ではありません。

慈眼寺を背に坂道を下ると東高野街道に出ます。そのまま行きに通ってきた細い道を通って野崎参道商店街へ戻ります。

駅まで戻って駅舎二階の窓から飯盛山の方を見ると、慈眼寺の西門が見えたので写真を撮ってみました。赤矢印で示した赤丸の内側に写っています。ついさっきまで息を切らせて歩いていた場所が遠くに見えるのを、なんだか名残惜しいような気分になって眺めていました。

JR野崎駅から大阪方面行きの各駅停車で帰ります。快速に乗る場合は一つ前の四條畷駅から乗るか、一つ先の住道駅で乗り換えることになります。また来ることがあるのかどうか分かりませんが、今は余韻に浸りながらゆっくり帰ることにしましょう。

大東市には何も無い、という話を聞いたりすることがありますが、野崎観音があると言ってもいいのではないでしょうか。駅から歩いて行ける山の上にある歴史上有名な慈眼寺は、今でも十分存在感があります。そんなお寺の辺りで戦国通史を語る情景を描いた本を、話の舞台となったお寺に献本してきた、というお話でした。今はもう12月になり、青葉の季節が一回りして紅葉の季節も終わってしまいましたが、また景色の良い季節になりましたら、皆様も一度参詣に行かれてみてはいかがでしょうか。
阿牧次郎著『河内の国飯盛山追想記』の御案内ページ
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