三好宗三の二人の子、三好宗渭と為三の兄弟は、真田十勇士の三好清海入道と三好伊三入道のモデルになったと言われている。兄の名が三好政康で弟の名が三好政勝であるとされてきたが、研究が進むにつれ一次史料に政康の名は出て来ず、兄宗渭の名が政勝で、後に政生(まさなり)と名乗ることが分かってきた。弟為三の名前については、以前の記事で検討した。
三好為三入道の諱、本名に関する問題点 - 阿牧次郎のBlog
三好宗渭について、従来の研究には、三好氏関連の系図類や続応仁公記の記述をもとに、三好之長の子である頼澄の子が政成・政康で、政康が後の釣閑斎宗渭であるとするものがあった。しかし今日では、頼澄が実在の人物であることが確認出来ず、また元亀2年7月20日三好為三宛足利義昭発給文書に「舎兄下野守跡職并自分當知行事」という記述があり、為三が実兄である下野守の跡を継ぐという内容になっていることから、三好宗渭と為三が実の兄弟で宗三の子であることが判明している。ちなみに、政生(まさなり)と名乗って政康と伝えられた人物が宗渭であることを念頭に政成・政康兄弟という人物名をよく見ると、同一人物のことを間違えて兄弟だとしてしまったと言うことも出来そうである。
釣閑斎宗渭の名前の変遷を追ってみると、まず、本願寺証如の天文日記に、天文十三年五月一日「三好宗三へ、就新三郎結婚之儀、三種五荷遣之。」、九日「三好新三郎へ、就宗三隠居、樽遣之。」の記述があるので、初期の通称が新三郎ということが分かる。諱については、東京大学史料編纂所のデータベースで調べると、
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】(天文17年ヵ)3月7日 【文書名】三好政勝書状 【底本】写真帳 松雲寺文書
【差出】政勝(三好)(花押) 【史料群】1 兵庫県史 史料編中世 2松雲寺文書
の文書から、政勝であったことが分かる。
三好長慶が三好宗三父子の誅伐を細川晴元に願い出た、天文17年8月12日の書状に「今度河州之儀も、最前請彼身可致粉骨旨深重ニ申談、木本ニ右衛門大夫令在陣、彼陣を引破、致自放火罷退候事、不顧外聞後難、拙身を可相果造意、於侍上者、言語道断働候。所詮宗三父子を被成御成敗、皆致出頭、世上静謐候様ニ、為江州可預御意見旨、摂丹年寄衆、以一味之儀、相心得可申之由候。」とあるように、その後通称が右衛門大夫に変わっている。
三好右衛門大夫政勝が出した書状に
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】天文19年閏5月10日 【文書名】三好政勝書状 【底本】写真帳 大徳寺文書 【差出】(三好)政勝K
古文書フルテキストデータベース 大日本古文書 大徳寺文書之七
があり、また、
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】天文19年閏5月10日 【文書名】三好政勝書状 【底本】写真帳 大徳寺文書 【差出】政勝K
古文書フルテキストデータベース 大日本古文書 大徳寺文書之一
の内容は宗三に関する御礼が書かれているので、右衛門大夫政勝は三好宗三の子であることが確認出来る。
注意しなければならない問題は出てくるもので、宗渭の祖父である三好越後守の記事
https://amakijiro.hatenablog.com/entry/2022/01/04/184132
で指摘したように、ここでも古文書の原本を詳しく調査した方がよいと思われたり、筆写物が誤りを含んでいないか注意する必要があると思われるような事が起きる。
日本古文書ユニオンカタログ 【和暦年月日】(室町後期カ)7月28日 【文書名】三好政直政勝書状 【底本】影写本 大徳寺文書 【差出】三好右衛門大輔政直K
古文書フルテキストデータベース 大日本古文書 大徳寺文書之七 (年未詳)七月廿八日
文書名に三好政直政勝とあり、差出人が右衛門大輔政直になっている人物とは一体誰なのかと問うてみたくなる文書になっている。結論から言えば右衛門大夫政勝として問題無いと思われる。ここまで挙げてきた文書には、三好宗渭の特徴とされる「おしどりの花押」が描かれており、この文書にも名前が隠れる位置におしどりの花押がある。文書が筆写されることがあっても特徴的な花押であれば、後から誰かが意図的に花押を書き加えたものでもなければ、同一人物のものとみて間違いは無いであろう。
右衛門大夫政勝となった宗渭は、江口の戦いで三好宗三が本家の三好長慶軍に討たれ榎並城が攻め落とされると、細川晴元の陣営に加わり丹波で活動するが、その間に名前を変えている。
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】弘治2年8月日 【文書名】三好政生禁制 【底本】影写本 本興寺文書 【差出】散位(三好)政生K
【史料群】本興寺 No.1兵庫県史 史料編中世
さらに官途が散位から下野守に変わる。
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】永禄1年6月9日 【文書名】細川晴元禁制 【底本】影写本 離宮八幡宮文書 【差出】下野守(三好政勝)K/越後守(香西元成)K
【史料群】離宮八幡宮
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】永禄元年6月9日 【文書名】細川晴元禁制 【底本】写真帳 離宮八幡宮文書 【差出】越後守(香西元成)(花押)/下野守(三好政勝)(花押)
【史料群】1大山崎町史 2離宮八幡宮文書 3離宮八幡宮文書
次の文書では、散位政生から下野守政生となったことが分かる。
日本古文書ユニオンカタログ【和暦年月日】(室町後期)5月6日 【文書名】三好政勝書状 【底本】影写本 金蓮寺文書 【差出】三好下野守政生(政勝)K
https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/sda/w21/20000929017803
三好下野守政生として三好長慶と和解し一族の元へ帰った宗渭は、その後三好長逸、石成友通とともに三好三人衆として三好本家の重臣となる。長慶の死後、言継卿記永禄9年閏8月17日に、山科言継が出した書状の写しが数件記載されているが、その中に宛先が「三好下野守殿」となっているものがある。言継卿記に三好下野が次に出てくるのは永禄9年11月11日だが、そこに三好三人衆発給の折紙があり、連署人が「三好下野入道 宗渭 判 石成主税助 友通 判 三好日向守 長逸 判」となっている。永禄9年閏8月17日から11月11日の間に、三好下野が下野守から下野入道に変わったことを山科言継が知ったことが分かる。ちなみに11月11日の文書は、三好長逸の「逸」に「やす」とフリガナが書かれていて、「長逸」が「ながやす」と読むことが判明する文書として知られている。言継卿記の本文に翌年の永禄10年2月17日には「下野入道」と書かれているので、この頃には三好下野入道の名が一般的になっていたものと思われる。三好長慶の葬儀が河内真観寺で行われたのが永禄9年6月24日、三回忌が堺の南宗寺で行われたのが 7月4日なので、その後に入道名を名乗ったものと思われる。ここに至って、三好宗三政長の子の兄の方は、三好下野入道こと釣閑斎宗渭となった。三好新三郎右衛門大夫政勝散位政生下野守下野入道釣閑斎宗渭、全て一人の人物が名乗った名前である。その内の幾つかが別人のものだと間違えられたりしたのも無理は無いか。
三好長慶の死後、13代将軍足利義輝殺害事件の永禄の変、三好三人衆と松永久秀の対立、三好氏が奉じる足利義栄の14代将軍就任、足利義昭を奉じた織田信長の上洛、義栄の死と義昭の15代将軍就任を経て、三好宗渭は永禄12年1月に本圀寺の変で重傷を負い、二條宴乗記永禄12年5月26日の部分にある「三好下野入道釣閑斎、当月三日ニ遠行由あわにて言語道断之事也。」という記述から、学術的には永禄12年5月3日に死んだと推定されている。
しかし。小説家としては、ここで宗渭に死なれては困るのである。弟の為三は実際に江戸幕府の旗本になっているので仕方がないが、ロマン派の皆さんの期待に応えるためにも、兄の宗渭には「三好清海入道政康」となり、真田幸村(学術上は信繁)と共に大坂夏の陣で徳川家康に立ちはだかってもらいたいところである。「河内の国飯盛山追想記」ではやらなかったが、今後長編小説でも書く機会があれば、二條宴乗記の記述が「遠行由」、つまり「死んだらしい」という伝え聞いた話としての書き方になっているので、実は死ななかった、ということにでもして、永禄12年以降も架空の人物として是非活躍させてみたい人物である。
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