阿牧次郎のBlog

阿牧次郎の作品紹介など。

三好宗三周辺の謎1、三好宗三

 拙著「河内の国飯盛山追想記」の主人公である三好為三の父は、宗三の法名で知られる三好政長である。この三好宗三、菩提寺の名を堺の善長寺といい、後世の記録では名前が三好善長と書かれている。名前の変遷について、通称について法名を名乗るまでは史料がはっきりしているが、その後、諱が政長から善長に変わったのかどうかは、古文書の上では不明である。しかしながら、現存する寺院の名前が政長寺ではなく善長寺ということから、法名を名乗った後に諱を変えたものと推測しておくより仕方がない状況である。

 三好政長が通称の神五郎から、半隠軒と号し法名の宗三で呼ばれるようになったのがいつなのかは、記録からある程度特定することが出来る。言継卿記天文十一年三月十八日の記述に「三好神五郎方へ遊佐又五郎以下九取之」とあるので、

言継卿記. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

天文11年3月の太平寺の合戦時には、まだ三好神五郎と呼ばれていたことが分かる。翌月の4月になると、蜷川親俊の親俊日記天文十一年四月廿日の記述に「一 丹波宇津城波多野三好甚五郎入道半隠軒宗三雖責寄之一向不成候今日開陣云々」、

親俊日記. 3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

大館常興日記天文十一年五月七日の記述に「一 鳥子百枚半隠軒より被献之」、

大館常興日記 : 一名・公儀日記. 第5 - 国立国会図書館デジタルコレクション

とあることから、木沢長政の乱が終わってから間もない、天文11年3月から4月にかけての間に宗三と呼ばれ出したことが分かる。後世の記述には三好宗三について摂津守や越前守と書いてあるものがあるが、実際には神五郎改め何々の守と名乗る余裕もなく、法名の宗三を名乗ることになってしまったようである。更に、木沢長政は三好神五郎を幕府に訴えていたのだが、騒ぎの原因が三好神五郎である点については認められていたことが、大館常興日記や親俊日記の記述にある。この辺のいきさつは本の中に書いておいたが、避難先から京都に帰ってきた将軍足利義晴に、新しい御所の新築祝いとして各地の守護が太刀を献上するのに混じって、細川京兆家御前衆とはいえ陪臣である宗三が金額的に同程度となる百枚の鳥子紙を献上しているのは、詫びの品を献上させられたとみるのが妥当であろう。(国立歴史民俗博物館「データベースれきはく」古代・中世都市生活史(物価)データベースの検索結果では、文明14(1482)年鳥子紙二枚が銭10文(100枚で500文)、永正12(1515)年に金履輪太刀が銭800文)。ちなみに、本願寺証如の天文日記で天文十二年八月五日の記述が「去六月下旬於河縁、三好神五郎衆與寺内衆喧嘩有之。」、九日の記述が「三好半隠軒へ、就先度諠譁事、」となっているので、本願寺が三好神五郎から半隠軒宗三になったことを認識したのは、天文12年になってからのようである。

 太刀という言葉が出たついでに、三好宗三にまつわる有名な刀、宗三左文字について検討しておきたい。宗三左文字は、「享保名物帖」など刀剣関係の文献では昔から、三好宗三が甲斐の武田信虎に贈った後、信虎の娘が駿河の今川家に輿入れする際の引出物として今川義元に贈られ、桶狭間の合戦で義元を討ち取った織田信長が分捕りにしたとされてきた。刀剣研究の大家である福永酔剣氏の日本刀大百科事典にある義元左文字の項には、三好宗三から武田信虎へ贈られた経緯が次のようにまとめられている。

「これを甲州武田信虎に贈ったのは、大永七年(1527)二月、武田家の分家にあたる若狭の守護、武田元光を、城州山崎に破ったことがある。あるいはその時、信虎が元光方につかないための工作に、これを贈ったのかもしれない。

 天文六年(1537)二月、信虎の長女が今川義元に輿入れした時、婿引き出として義元に贈った。」

三好宗三が若狭武田氏を破ったというのは、堺公方勢力の先遣隊と細川高国派の激突である、桂川原の合戦のことである。負けた細川高国勢の大潰走については、「言継卿記」にも大永七年二月十三日以下の記述がある。

言継卿記. 第一 - 国立国会図書館デジタルコレクション

私は作中で、これらの記述をもとに、後述の理由も考慮して宗三左文字の話を展開した。

 最近、刀剣ブームの影響で誰かから書くように頼まれたのか何なのか、信玄によって甲斐から追放された武田信虎が上洛した時に三好宗三が信虎に誼を通じるために贈った、とする歴史学者の説を見ることがある。天文年間の中頃に、三好宗三が、追放された武田信虎に一体何の用があったのか、詳しい理由がはっきり書かれているとは言えず、推測が述べられているにとどまる。信虎は天文10年に追放され、天文12年に京畿を遊歴したとされるが、今川義元に娘婿への贈り物として左文字を贈る必要が今更どこにあったというのだろうか。

 資料的な裏付けを求めるなら、戦国史の学術研究者であれば一通り目を通しているはずの「史料綜覧」、その大永7年4月27日4条の綱文は、「義晴、甲斐守護武田信虎の音問を謝し、且、忠節を勵ましむ、尋で、義晴、上野上杉憲寛、信濃諏訪社大祝諏訪高家、木曽義元をして、信虎に合力せしむ」となっていて、明治時代の草稿「史料稿本」では「是ヨリ先、武田信虎、将軍近江ニ遁ルト聞キ、使ヲ遣シテ力ヲ効サント請フ。是ニ至リ、其上京ヲ促カス。尋テ上杉氏及ヒ諏訪大祝ニ命シテ、信虎ト協力セシム」とあり、史料として「室町家御内書案」が挙げられている。以上のことから、桂川原の合戦後に武田信虎が上洛しようとしていたことが分かる。甲斐の武田信虎が若狭武田家を支援し足利義晴を擁して細川高国側につけば、足利義維を擁する堺公方府にとっては、面倒極まりない事態となる。結局、信虎が上洛することはなかったが、阿波の三好が甲斐の武田に関わりがあるとするなら、この時が最大の危機だったであろう。武田家や今川家で三好左文字と呼ばれていたという宗三左文字が、武田家へ贈られたことについて、これ以上の理由を挙げられるであろうか。

 もともと、刀剣に関する研究は、歴史学において文献学の分野ではあまり研究が進んでこなかったのではないかと思われる。徳川八代将軍吉宗の命により享保名物帖が編まれるなど、刀剣類の来歴等については昔から記録が行われてきたが、大昔の売買や贈答の受領書などの一次史料があるものでもなく、戦場での分捕りで持主が変わることが珍しくも無いため、多分に伝承に頼らざるを得ない事情がある。現在では明治時代の廃刀令以降、特に戦後は刀剣が兵器とみなされ、GHQによる日本軍の武装解除やその後の銃刀法によって、登録を受けた刀剣がいわゆる「美術刀剣」として「例外的に」所持を認められる状況になっていて、刀剣類は書画骨董のジャンルに入る扱いである。そうした背景もあるため、刀剣類の研究は、国宝や重要文化財クラスの物は博物館や美術館の研究員、その他は愛好家の大家によって行われてきた部分が大きい。更に、室町時代から公義御用を務めてきた本阿弥家などによって、複雑な事情の下に骨董品としての値打ちが付けられてきたという、古美術品の世界の話である。世間の話題になっているからといって急に始めてみても、歴史学での学術的な研究がそう簡単に進むとも思えないのだが、どうだろうか。

 

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