阿牧次郎のBlog

阿牧次郎の作品紹介など。

三好長慶の位置付けと天下人

 拙著「河内の国飯盛山追想記」(アメージング出版刊)で物語の中心になる三好一族、その最盛期を築いたのが三好長慶という人物である。江戸時代初期に成立した徳川家康の事績を記した史書「当代記」の冒頭で「三好修理大夫元來細川家侍頭、住國は四國也、天文年中より頻開武運成大身、保天下事二十餘年」と書かれ、傍注に「天文年中より二十年天下主」とあることから、戦国時代の天下人であったとされている。

 日本史の話の中で、天下人という言葉を目にすることは、よくあることである。現代では、てんかびと、と読まれることが多い。少し版が古いが、手元の広辞苑第四版の「てんか」の項では次のように説明されている。

-にん【天下人】天下の政権を掌握した人。てんかびと。

今日でもそうだが、第四版第一刷が発行された1991年当時でも「てんかにん」と読むことは、あまりなかったのではないかと思われる。

 その天下人であるが、特に有名なのが織田信長豊臣秀吉徳川家康という、戦国時代の後期である安土桃山時代に政権を掌握していた三人ということになるだろうか。学術的には、今のところはっきりとした定義付けがなされていない漠然とした言葉のため、天下人とは誰と誰を指すのかを明確に言うことの出来る言葉ではない。ただ、古代の大王の時代から摂関政治院政期ぐらいまでは、天皇はじめ摂政関白のような実権を握った者も天下人とはされず、初めて武家政権を成立させた平清盛あたりから、天下人と呼ばれるのが一般的かと思われる。その後が鎌倉幕府を成立させた源頼朝室町幕府を成立させた足利尊氏となる。

 室町時代の途中で応仁の乱が起き戦国期に入ると、足利将軍家家督争いが頻発し、その時その時で将軍、管領の擁立者や勢力の主力軍を率いる者が、政権の実権を握る者として天下人とされる事例が出てくる。まず挙げられるのが、11代将軍足利義澄の時に管領細川澄元の執事となった三好之長である。

 三好之長は「天下ノ執權八箇年」(足利季世記巻四三好家傳ノ事)、八年というのは誇張が過ぎるが、その他文献の記述にもあるように、細川澄元の後見人として実権を握っていた。三好長慶の曽祖父である。三好之長の天下は長続きせず、将軍復帰運動を続けていた足利義稙、それと連動した細川高国の勢力に政権を奪取された。次に挙げられるのが義稙、高国勢力の主力軍となった周防国守護大内義興となる。

 大内義興は義稙(当時の名は義尹)を擁して上洛し、将軍義稙、管領高国の主力軍として京都に駐留し、管領代(管領になったとの説も)となり、当時は最高実力者とみられていたため、歴史上大内義興は天下人として扱われている。負担の増加などの理由から帰国すると、足利義澄派が反撃に出ることになった。

 その後の三好長慶による三好政権に至るまでの経緯は長いので割愛するが、長慶の父元長はいわゆる堺公方府最大の実力者であったため、足利義維の将軍就任が実現していれば、天下人になった可能性のある人物である。

 三好長慶は、足利義澄の子義晴と義維による二系統の争いを、最終的に室町幕府を義晴の子13代将軍義輝と管領細川氏綱の形にまとめ、軍事的に当時最大級の勢力を率いて将軍家と細川家の家督に関して安定を維持し、室町幕府を支え続ける役割を担い続けた天下人である。長慶の死によって安定が崩れることで起きた混乱の中から、織田信長が登場することになる。

 三好長慶から織田信長の時代に移る間に、天下人を目指したと思われる動きをした大名も見られた。

 今川義元は古来、上洛しようとして桶狭間の合戦で織田信長に討ち取られたという話が語られてきた。最近の研究では尾張侵攻であったとされるようだが、目的が上洛だった場合、京都に駐留して将軍家を支える軍事力となれば天下人になると言える。しかしその場合、将軍義輝と三好長慶との関係が改善して平穏であった京都で何をするつもりであったのか、という話になる。

 武田信玄はいわゆる信長包囲網の最強軍団として、将軍足利義昭の求めに応じて上洛作戦を開始した。織田信長を破って上洛を果たせば天下人の地位に就くということになるが、いわゆる西上作戦の陣中で病没という結果となった。

 上杉謙信は逆に、天下人になることを求められたが断った人物といえる。二度上洛して将軍足利義輝から京都駐留を求められるが、関東管領の職を全うすることをひたすら追求し、北陸から関東にかけての地域で活動を続けた。

 天下人にならなかった人物なども間に入りつつ、天下人の在り方は織田信長の時代に至ることになるが、織田信長はこれまで述べてきた二種類の天下人の、両方になった人物であると言える。

 織田信長は永禄11年に足利義昭を奉じて上洛し、義昭が15代将軍に就任すると、京都と本国を行き来しながら反義昭勢に対抗する最大の軍事勢力として活動した。ここまでは、室町幕府の主導権争いで続いてきた天下人の図式そのままであるが、信長は将軍義昭との争いが起きると義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。その後は自身が中央政権の主として天下統一事業を進め、本能寺の変の頃には、帰順者の受け入れと残敵掃討の段階に至っていたと言ってよい。その時点では、自らが全国の統治者となる形の方の天下人となっていた。

 豊臣秀吉は、信長の死後に崩壊状態となった織田家の勢力圏を、素早く建て直して引き継ぐ形で天下統一事業を推し進め、武家で初めて関白となり、更に太政大臣となった。武家関白制という新制度を創設し、全国の大名全てを臣従させ天下統一を果たし、全国の統治者としての天下人になった。しかし後継者問題が発生し、幼少の秀頼を遺して死んだことで、政治の実権は徳川家康へと移っていった。

 徳川家康豊臣秀吉の死後、秀頼の後見人となったことで「天下殿(多聞院日記慶長四年閏三月十四日)」となり、関ヶ原の戦いを経て自ら最高権力者になった。やがて江戸幕府を開き、日本の統治者という意味での天下人となり、豊臣家を滅ぼした。以後は江戸の将軍様が天下様ということになる。

 ここまで話が進んでくると三好長慶のことを忘れてしまうが、長慶が死んだのは永禄7(1564)年、戦国時代が終わった慶長20/元和1(1615)年の大坂夏の陣から51年前のことである。戦国時代の最終決戦に臨んだ戦国武将達は、続く江戸時代に戦国時代の話を語り継いでいった。その時点で彼らから見ると、徳川家康はこの間死んだ人、豊臣秀吉はだいぶ前に死んだ人、織田信長は昔いた人であり、三好長慶は既に老人達の遠い記憶の中にいるだけの、歴史上の人物になっていたことになる。この辺りの事情が、後世で三好長慶が忘れられたり、現代では存在感が薄かったり、何をした人なのか知られていなかったり、知名度が低かったり、所縁のある土地の人に存在を知られていなかったりすることになった原因なのかもしれない。

 作中では、長慶の死後、滅亡した室町幕府の後を追うかのように三好本家が滅んだという文を入れたが、実は逆なのかもしれない。三好長慶が死んでしまったことで室町幕府の命運が尽きた、という書き方をした方が三好一族の説明として、よりアピール力のある表現になったかもしれない。足利将軍家管領がサポートしながら動かす幕府機構、その基本形を守ろうとほぼ一生奮闘し続け、一定の安定を得たところでついに力尽きた、戦国一の苦労人と言っても過言ではないであろう三好長慶は、室町時代最後の天下人、と表現するのが、一番簡潔で分かりやすい説明になるのではないか。

 

Amazon

河内の国 飯盛山追想記

河内の国 飯盛山追想記

Amazon

楽天ブックス

books.rakuten.co.jp

三省堂書店 Yahoo!ショッピング

store.shopping.yahoo.co.jp

三省堂書店 店舗注文用バーコード

www.books-sanseido.jp